Room to Move
とても個人的な見解だけれど、僕は音楽を演奏したり聴いたりするとき、継続的に変化する色や形、明暗や距離感のような、いわば視覚的イメージが伴うことが多い。上手くは言えないが、音楽的な理解やインスピレーションよりむしろ、こういった二次的な感覚に大きく左右される気がしさえする。
その上での話だが、空間の捉え方は千差万別なのだということを、いろいろなミュージシャンと共演していてしばしば痛感する。ここでものすごく乱暴に分類を試みるならば、大きく2つのタイプに分けることができるかもしれない。ひとつは空間を必要としない人、あるいは空間を強引にでも作り出すことのできるタイプ。他方は、空間を必要とする人、つまり空間の中で自分自身をレイアウトし構図を作りだそうとするタイプ。これはもちろん、どちらがいい悪いの話ではないが、僕は明らかに後者である。
空間(スペース)が感じられないとき、強い苦痛を感じる。そこに弾くべき音が「見えてこない」感覚。そしてそれは、音楽的用語としてのスペースとは無関係である気がする。たとえば、超絶的な音数で埋め尽くされているような演奏でも、そこに広大な空間が感じられることはある。反対に、音数が少なくて多くのスペースが残されていても、他者が入り込む余地が感じられないことも。つまりそれは、共有感の問題なのではないだろうか。それぞれの演奏家が当然ながら独自のフィールドを持ち、共演する瞬間に、重なり合い共有できる空間を探り合うというような。
誰かと共演するとき、とりわけ即興性の高い音楽を演奏するとき、この共有感をいかに保つことができるかが、僕にとっては最大の要素である。「相性」と言ってしまえばそれでおしまいだが、真実はもう少し複雑。共有できる空間をうまく見つけることができずにせめぎあう過程が、音楽的な緊張感を生むことはよくあるし、空間をすっぽりと埋め合い過ぎて、全体としては平坦な演奏になってしまうことだってある。それは、実際の人間関係と同じで、完璧な関係性というのはそう簡単には成立する物ではないのだろう。だからこそ面白くもある。しかし、究極的にはやはり、美しく空間を共演者やオーディエンスと共有できるような音楽を目指している。
水のような演奏をしたい。川を流れ、池に憩い、海へ注ぐ。どんな器にすくい取られようとも、完璧にそのシェイプを変え、それでいて水であることの純粋性は失うことがない。そんな音楽。
Where All Is Emptiness There Is Room to Move - Ray Bradbury
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コメント
鴨長明『方丈記』の冒頭をふと思い出しました。(冒頭しか知らないのですが)
いつの時代も本質を見つめようとする人は同じ境地に行きつくのでしょうね。
夢中になって読む本は、話の展開にワクワクしながらも、どこかで終わらないで欲しいと願いながら読み進みます。
清野さんの音楽には、「この時間が、この空間が終わりを迎えないで欲しい。」と願うことさえ忘れて、浸ってしまう感じです。
時間と空間の感覚がなくなって、気がつくと他にない充足感に満たされ、帰路についている自分に気がつきます。
「瓦礫と雑草」のお話は、象徴的で、強烈な印象が音とともに残っています。
いろいろと思いを巡らす日となりました。
投稿: クラリス | 2011年7月26日 (火) 23時15分
クラリスさん。素敵なコメントをどうもありがとうございます。
とても幸せな気持ちになりました。
こんなふうに受け止めてくれる人がいると知るだけで、勇気が湧きます。
「方丈記」僕も学校で習った冒頭をおぼろげに憶えているだけですが、なんだかちゃんと読んでみたくなりました。
すべては無常でありながら循環しているのかもしれませんね。
あらためて今をしっかりと生きなければと思いました。
投稿: 清野拓巳 | 2011年7月27日 (水) 03時27分